リボンの騎士が、生理になったら?

今、日本の芸大、美大生がアーティストとして世に出る為にはどの様な方法を取るのでしょうか?何かの公募展に出品するか、貸し画廊などに自腹を切り展覧会を開くという方法が嘗ては一般的だったと思いますが、今はどうなのでしょうか?多分、みなさんもご存知だと思いますが、ヨーロッパには貸し画廊的な物は数少なく、あっても売り絵的な物が中心となっていると思います。例えば学生がその様な所で展示してもあまり次ぎに繋がる効果的な手段とはなりえません。
では、どの様な手段でチャンスを作るか?
その様な決まりきった物は存在しません。
日本の場合、小さい頃からレールを敷かれ、そのレールに乗っかって育ってきた人が多いと思います。しかし、アートとは、そういった自分のレール自体を作る事から始めなければなりません。と言う訳で、その様な方法論は無い。と思っていた方が良いと思います。
良くアーティストの学生時代その後のアーティスト時代の伝記みたいのを見ますが、あまりどのようにアーティストになってアート界に進出したか?の部分は外されて書かれていると思います。階段で言えば階段を順調に上り突然、1段が壁位高くその後に又、階段が続くといったイメージが一番合っていると思います。
この壁の様な1段を上れるかどうか?で将来、の方向性が大体決まります。
ジョンルークは、言っています。“多くのアーティストはいらない。”
この1段を上れなかったら、職業としてのアーティストになる事は見送りアートファンとしてアートを楽しむか、アートの周りの職業につく事をお勧めします。
きつい事を書いていると思われるかもしれませんが、アーティストもアートファンもアートを愛する気持ちは変わらないと思います。ちょっと極端になりますが、フランスでは日常いやな事も汚い事も生活の為に遣っているが、アートだけはそれぞれの人が子供時代に持っていた純粋な自由気持ちを保っていて欲しい。と言う特別な目で保護されている様に感じます。
そういった意味合いからも何処か、神=アートに近い感じがフランス社会の中で有ると思います。
神主さんも氏子も神を信じる気持ちには変わりなく。
アーティストもアートファンもアートと言う純粋な領域を守りたい。と言う気持ちには変わりない。と思います。
ジョンルークの言う“多くのアーティストはいらない。”という言葉は、一見、排他的に聞こえますが、実は、“多くの犠牲者は要らない。“と言っているのだと思います。
アーティストとは聖職なのです。
しかし、この聖職になる為の壁の様な1段。。
ここが問題なのです。
多くの場合、ここを上る為に荒行事をやる事もしばしば有ると思います。
多くの場合、ここの所では綺麗ごとばかりは言っていられない現実があります。
前置きが長くなりましたが、この良い例えで、上記のグルノーブルのスター、ヴィディアがどの様に1段の壁の階段をよじ登ったかを話します。
ある日、私とヴィディアは、TGVでパリへ、何かの用事で行きました。(済みません、用事の内容は忘れました。)
そのTGVの中で“ポンピドーセンターで、全裸の女性をモチーフとして展示する展覧会が催される。”と言う記事をパリマッチか何かの雑誌で見つけ、そのオープニングが今日、あるとの事。
私達の目が光りました。
多くの、ジャーナリストが来る。何か遣ろう。
相手は、裸の美女。
それに対する私は、裸のアジア男?
使えない。。。全然、アートじゃない。。
そうこう考えているうちに、ヴィディアが突然、
“生理になった!!”
と訳の解らない事を私に訴え、その時、穿いていた足にぴったりした白いパンツの股の所が赤茶色になっているではあ~りませんか。。
あの~、言っておきますが、この子、知っている人は知っていると思うのですが、モデルの様な子で顔もとても可愛い18歳の子です。
“え!どうしよう!変えのパンツとか今、無いし。。”
その瞬間、ヴィディアの目に悪魔がチラッっと登場したのを私は見過ごさずチェックしました。
“このまま、行こう”とヴィディア。
“え?どこに?”と私。
“え!まさか~!”
そう、乗馬服の上着に足にぴったりとした白いパンツ、“リボンの騎士”と言うマンガを知っている人には分かり易いと思いますが。正に中世おフランスの絵の世界の少女。
まだ18歳のリボンの騎士には、生理という物は、羞恥心のかたまりの様で、会場のポンピドーセンターに入るとさらにチラッ、チラッと彼女を見る通行人の視線に苛められて、その苛めに耐えるがの如く唇を斜めに噛んでいました。いよいよ展示の会場に入る頃になると真っ白なパンツに表現された、その赤茶の染みはさらに大きく嫌がおうでも目に入ってきます。、展示されている生身の裸体の美女を見ている観客達の視線も、時たま戸惑いを隠せない様にチラッ、チラッ。そのうちに遠めに何人かの群集を作りこちらを見て話し始め、そういった群集が2-3出来た頃には、展覧会の作品である裸体のモデル達も体はそのままで、目だけこちらを見ています。このなんとも気まずい雰囲気に勝敗を決めたのは、ジャーナリストのカメラマン達でした。1人のカメラマンが彼女を撮影しだすと、他のカメラマンも遅れまいと彼女の前方を占領して、それを合図に一般の観客達がヴィディアとカメラマンの外側から円弧をなして集まって来ました。その時、私は、そっと円弧の観客側に回りスター誕生の瞬間を心に刻む作業をしていました。
こういった一連の行為がアートなる神に対して尊厳ある物かどうか?疑問は残ります。
しかし、次の日の新聞のコラムで、そういった罪悪の気持ちは少し救われました。
“エロティシズムとは何か?“
その後、次々と出る各社の社説も同じような論調で、どちらが良いと言うような書き方では無く、ヴィディアの行為は、観客に疑問符を与えた。という論調でした。
そういった意味で彼女の行為は評価される。と。
アートと言う物を最高位に位地付けしてのアートからの言い方です。
この様な評論を書ける、おフランスはやはり、伊達に、おフランスと言う称号を頂いていたのでは無い。とその時、痛感しました。
この後、彼女は自分自身の階段の高い壁をよじ登り、あまりの緊張と疲れで、そこに座り込んでしまっていた様に呆然としていました。帰りのTGVでは、その自力で登った壁を上から下を見下ろし、その高さをかみ締める様に、車窓から目に入っていないであろう風景を無言でずっと見ているアーティスト ヴィディアが居ました。

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