日本の美 日本の誇るデッサン

他の人のボザールでの生活のブログを見ると、ボザールの授業料は、現在、300ユーロの保険料だけが年間で必要だそうです。私の時は確か800フラン、約2万円でしたので、少し値上がりしているようです。しかしこの値段は日本の芸大、美大の入学金、授業料と比べれば雲泥の差で殆どタダ。
それに対する日本の予備校、芸大、美大、そしてその後に繋がるアート界のシステムの老朽化、しかしそれが受験産業などと結びついて1つの産業となっている為、急速な改革が難しい日本の現状。
しかし、出来る事なら、生身のあなたは、そういった混乱に巻き込まれ、時間と出費の浪費に巻き込まれる事を回避すべきだと思います。
そういった意味でも、海外美術留学を真剣に考えても良いのではないか?と思います。
アートには既成の方法論など無いと思います。フランスの多くの一般庶民がアート又はアーティストを自分たち社会生活の中でする事の難しい自由の発想、アートだけは自由にさせておいて上げたい。そういった社会生活の中での公共の憩いの公園的役割を持っていると思います。アーティストもそういった市民の暖かい目に見守られている事に対して責任感を持って自由を創造し。市民がその創造された自由に触れる事によって幼い頃に持っていたであろう何処か神聖な気持ちになれたり、日常の忙しい社会生活を一旦止めて自分自身を振り返り、そういった物に接する事により新たなエネルギー沸き立たせ日常生活に戻る。
このような社会全般にたいするエッポック的機能の役割を負っています。
ですので、アート、アーティストは責任を持って自由を提供しなければなりません。
こういった視点は産業の内側に組み込まれた物からは創造されにくく、しかし、アーティスト自身も生活しなければなりませんので、そういったボーダー上の仕事をしてくれているのがギャラリーだと思います。
何故、この様な事をうだうだ書くかと言えば、
“まず、アートを作りたいのなら始めから自由にアートを作れば良い”
そして、自分の制作方向の上で今後、技術的な必要性を感じるなら、その時点でその技術の習得を考えれば良い。
普通のイメージでは“自由“と聞きますと何と簡単。と思いますが遣って見て下さい。
頭が急に回転し始めると思います。
そうなのです。ここが出発点なのです。
遣り方を含めすべて自分で創造し、たまには、まだ社会に無い道具が必要な場合は、その道具も作らなければならないでしょう。
“社会に対して責任を持った自由“となるともっと大変です。
海外で多くのアーティストを輩出している学校は一般に面接とポートフォリオ提出が入学試験だと思います。
ここで、“日本の美“、“日本の誇るデッサン“なる物を提出したあなたは1次試験で落ちるでしょう。
私はある有名なビエンナーレにフランス側、それと主催者側から招待を受けましたが、日本側から日本で活動していない。との理由で日本からの援助が得られずキャンセルになった経歴があります。
私はその時、何も隠さず日本のアートを紹介するのだったら、日本の美術雑誌で毎回、最もインパクトのある部分、
“モナリザもアッと驚く○○堂”
の広告や受験生の血の出る苦しみが良く伝わり、印象派的な出来の“ラオコーンのトルソー”のデッサンの出品を、お願いした方が本当の日本の現状を世界に見てもらう展覧会としては正直なのでは?と本気で思いました。
そういった意味では、まだ北朝鮮が金日成の絵画を堂々と出品して来る展覧会の方が北朝鮮の現状を理解出来、国としては正直だと思います。
アートの自由な創造は、自分をさらけ出す事がら始まります、しかし、その簡単な事が最も難しいのです。
受験の為、ポートフォリオを提出しないとならない場合、そういった所での試行錯誤を素直に資料として提出する事を提案します。
何故か?と言いますと2次試験で面接と思いますが、当然、試験官はあなたの目を見てあなたを見抜きます。その時、ポートフォリオも同時に閲覧しますので、見抜かれたあなたは、誘導尋問にひっかかりメッキを剥がされるでしょう。
勇気がいりますが、自由の発見の為に試行錯誤しているあなたを正直に出すだけでいいのです。
本当は、本来あなたは、そういう事を遣りたかったのでは無いですか?

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