ガラパゴスアート

私が始めてグルノーブルのボザールに行った時の正式な学校の名前は、Echole des Beaux-Art de Grenoble でしたが、確か3年後に、Beaux(美)が無くなりArt(芸術)だけになりました。確かに、現代アートがアートの主軸となりコンセプテュアルアートと言う美術史の中でも異質なアートを生み出し、そのコンセプテュアルアートが他の分野にも大きく影響を与え、又今後も何らかの形でその影響受けるでしょうし、もうすでにこの現代アートが一般にも受け入れられてからかなりの時間が経っていますので、当然と言えば当然です。
では、日本ではどうでしょう?美大はそのまま美大の名前を引き続き使用していますよね。
私は、この事への正否の意見は避けたいと思います。何故なら私の経験からコンセプテュアルアートの出てきたバックボーンが日本と欧米とではかなり違うのではないか?と思うからです。まず、欧米へ旅行なりして友人が出来たりすると判ると思うのですが、欧米人は論議する事によってお互いに理解し合う。という慣習が日本のそれよりかなり細部まで行われていると思います。もしあなたが欧米の友人を持っているのならこの様な事を書かずとも承知されていると思いますが、何を言っても、何を遣っても“何故?”と聞いてきますよね。この時、日本人である多くの人は、感覚でいった事、行った事に関して
“何故?”って言われても。。?
と言う感じで戸惑う事もしばしばだと思います。
何故ならば感覚的に遣った事に対して説明をすると、どうしても100%論理的には説明出来ない事が多いと思います。逆に考えると、だから感覚的な物の必要性があるのかもしれません。
子供の頃は世界中の子供は殆ど共通して何に対しても“何故?”って好奇心旺盛に質問してきますよね。しかし欧米では、この日本人、又は広範囲のアジア人と異なり大人になっても、みんな子供の頃の様に“何故?”と疑問を投げかけてきます。これが欧米においてコンセプテュアルアートなる物の必然性となっている社会的バックボーンと思うのです。
このコンセプテュアルアートは一般にアメリカ発、と言うイメージが強いと思いますが、私の見聞からすると、アメリカ又はイギリス、ドイツ、フランスなどの国の枠組みとしての動きより、ここにユダヤ人、ユダヤ教と言う欧米を網羅している民族文化の戦略と見た方がより納得のいくものであると思います。
このブログでは、趣旨がら大きく離れる事になると思いますので、この話題を避けるべきだと思いますが、現在、今だに大きな影響力を持つコンセプテュアルアートを話すとき、個人、国と言う単位では見えて来ない大きな視点で見るとき、このユダヤと言う大きな力を見ずには語れないと思っています。
どうしても日本は、欧米から遠方にありますので、情報としてしか物事を知る事が一般的になっており、情報の混乱がその本質を見る目をさらに混乱させていると思います。また情報というのは、このブログも同じなのですが、どうしても作者の見た目というフィルターを通過した物ですから、その作者がどの様な思考、方向性を持って見るかによってもかなり違ってくると思います。
では、このユダヤのコンセプテュアルアートに対して、次のアートを担うべき日本発のファインアートはどの様な提案が出来るでしょうか?
私は講師又は、展覧会の為、度々ユダヤの本拠地イスラエルに行っていた時期がありましたが、ここでの経験が何か参考に成るかも知れません。
日本、フランス、イスラエルと比較して見ると、イスラエルの学生の知能レベルの高さは目を見張る物があります。私は講演で私の作品のスライドを見せますが、スライドの終わった後、必ず質問等の時間を取ります。日本の場合、2-3の質問、フランスで5-6の質問、でイスラエルの場合は、質問と言うより学生間の討論になり、作者の私にはそれほどの質問は来ません。その討論は概して私の作品に対して好意的な物ですが、話している内容が、途轍もなく哲学に沿った内容、というか哲学その物。
例えば、Shujiの作品の言っている事はバタイユの。。と言う感じで時たま何ページとか言っています。作品を作った私にはチンプンカンプン。あまりに暇なのでヘブライ大学からぼんやり見える死海をユダヤの幻術に掛かった様にボーと見て完全に落ちこぼれの生徒状態。
しかし、そういった生徒達の作品は?と言いますと、あまり面白い物が無いのです。と言うよりはっきりいって何も感じない。
私はとっさに悟りました。“彼らの左脳が右脳の自由をブロックしている。“
“アート作品の制作の上で脳の働きの順番が逆になっている。“
これはアーティストにとっては致命傷的問題で、アートの必然性の問題に関わる事である。
コンセプテュアルアートの危険性、又は弱点をここに見た。と感覚的に思いました。
“多分、評論家がアート作品を作るとこういう事になるのだな~。“
ユダヤ人は多くの哲学者、評論家を輩出していますが、当時、イスラエルで最も優秀とされる評論家サリット シャピーラと仲の良かった私は短直に色々な質問を彼女にぶつけました。
“貴方達、評論家はもしかしてアーティストに嫉妬していません?優秀な頭脳で多くの事を可能にする事が出来る貴方達が、唯一、子供の様に自由な感覚に嫉妬していません?”
彼女は難なく“そうです”と素直に答えました。彼女を見ると子供の様にはしゃぐ事もありますが、何か不自然。私の感じるに、感覚を自由にしてあげる事が、バカに見えるか何か解りませんが怖いのだと思いました。だから彼女達はアートを愛し、アーティストを愛すのだな~と。
片方、日本発のアートはどうでしょう?
先に、コンセプテュアルアートにおいて日本と欧米ではその社会のバックボーンが違うと書きました。
日本は日本で独自の道を行く。と言う意見も解ります。しかし、同時にアートとはコミュニケーションの媒体であります。日本国内に制限するのなら問題はありませんが、日本を代表する作品、又はアーティストとなった場合、当然、海外での発表の機会が増えてくると思います。その時になって海外用に変更出来るのなら問題は無いかも知れませんが、そんな器用なアーティストは居ないと思います。
海外では先に話した様に子供のようにすべてが“何故?“それをクリアー出来る作品でないといけない。これを無視するとガラパゴス携帯の様に、世界からは見向きもされないでしょう。ガラパゴス携帯に付いて、たまに外国人は使いこなせないから。とかの意見を聞いた事がありますが、その通りだと思います。しかし、フランスのカフェの件で見られる様に、彼らは利便性よりも人間性、社会の為の個人より個人の為の社会と言う風に考えていると思います。社会、個人にそういった哲学が浸透していますので、彼らには不必要と目に映ったのでしょう。
海外の“何故?”を無視したアートは、ガラパゴス携帯と同じ事が起こる可能性が大きいと思います。
そういった意味で、コンセプテュアルアートの次を担う新鮮な日本発のアートを期待しています。
その日本発のアートが世界のアート軸になった時、日本の芸大、美大の呼び方が変わるかも知れません。それまでは、借り物的イメージの強い芸大、美大でも良いのでは?と思っています。
世界を知る事が自分を知る事に大きな助けとなる事が多々あります。次世代を担う人は、そういった視線の必要性を感じたとき、挑戦してみて下さい。多分、私とは違った方向からの見方が見えると思います。そういった多様な意見、感覚のコミュニケーションがコンセプテュアルアートに続くアートの創造に繋がるのではないでしょうか?

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