坊主への道

私のグルノーブルの学生生活で欠かせなかった事は、マルシェ(露天市場)に古着を買いに行く事でした。教会前の広場がそういった物を扱うマルシェとなっている訳ですが、フランス文化の凝縮した感のあるそういったマルシェから教わる事も多く、ここの経験が私を後にファッション関係の仕事へと導いた訳です。
その後、世界各地に仕事で行く事になると、習慣となった古着マーケット巡りを各国で行い、そこで物色した服を自分のお土産としていました。
この古着集めの趣味で好きであり、また嫌いでもある事は、その古着の匂いです。
そこの部分が気になり作品となって行ったのが、イスラエルビエンナーレで発表した作品なのですが、その私の作品にイスラエル美術館のキュレーターで評論家のサリット シャピーラが古いユダヤの言葉を教えてくれました。
“洋服は第二の皮膚である。”
このユダヤの言葉は私のファッションとしての服と言う視点を根底から覆し、私自身の中にアートとしての服と言う物の存在を確固たる物としてくれました。
少年アートの中で“何も無い所でも良く観察しろ、必ず何かある”といった文面があったと思いますが、普通、服は常に身に付けている訳ですし必然的にそういった観察の対象になっていきました。
その服に必然的に付く匂いと言う文化は視覚可能な状態で保存すると言う事が難しく、強ち疎かに扱われがちですが、人間の本能的な部分を左右する重要な文化でもあると思います。
世界各国を旅行された経験のある人はご存知だと思いますが、各国の空港にはその国の匂いがあり、到着した瞬間にその国の凝縮された文化を感じる事を楽しめます。
フランスはフランスパンの様ななんとも香ばしい匂いがします。イギリスはちょっと脂肪の匂いがします。イスラエルはやはり少し砂漠の砂の匂いがします。タイは物が腐った匂いがします。で、日本は自国なので気にならないのですが、他の人に聞くと新鮮な魚の匂いがするそうです。フランス人に聞くとフランス人には自国の空港の匂いが解らないそうで、やはり自国の匂いを認識する事はその文化の中に居ると難しい様です。
匂いと言う物は恐ろしく個人の感覚を左右する物の様で、幾ら美しい人でも自分に合わない匂いを発していればどうしても受け容れられないし、その逆も又しかりですね。
私は個人的に海外では、フランス、イスラエル、タイが好きなのですが、多分、それは、その空港に降り立ち、その匂いを嗅いだ瞬間にもう決定付けられた物だったと思います。
それ位、匂いと言う文化は人間の本能に根ざした物で、又この文化は評論なる物が出来ない分野でもあると思います。
服には最も身近で長い間身に付けているため、そういった物としての文化以外の文化が多く付随されている面白い文化と思います。
先にはなしたファッションデザイナー、マルタン マンジェラと一緒に展覧会を遣る機会が2-3回程あったのですが、その彼が現在、デザイナーの仕事を辞めているそうです。当時の作品並びに彼との会話から、私には彼は今、出発点をアートとし、そういった物の中での服、その様な視点を持ちたく辞めたのかも?と想像しています。
デザイナーとしてアートへの方向性を追求してきた感のある彼ですが、多分、壁を感じたのではないか?と思います。
それは数字でのゼロの存在と似ている壁だと思います。
と言う事で、私が坊主頭なのかも知れません。

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